元禄文化の中の刀装具──正阿弥政徳と光琳・友禅が生きた時代

元禄十四年(一七〇一)三月、江戸城中で浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ。翌元禄十五年十二月、大石内蔵助率いる四十七士が吉良邸に討ち入った。この「赤穂事件」は、元禄という時代を象徴する出来事として今日まで語り継がれています。

しかし、大石内蔵助が京・山科に潜伏していたその同じ年、京都の西陣では一人の金工が鐔に銘を刻んでいました。「城州西陣住正阿彌市郎兵衛政德作 元禄十四年十一月吉日」──正阿弥政徳(まさのりまさとく)の銘と年紀を持つ鐔は、赤穂浪士の討ち入りのわずか一ヶ月前に完成したことになります。

刀装具の歴史を辿るとき、私たちはしばしば政治史の大きな出来事の陰に隠れた「文化の時間」を見落としがちです。しかし、元禄という時代は、尾形光琳・野々村仁清・宮崎友禅といった名だたる芸術家たちが一斉に花開いた、日本文化史上まれに見る豊かな季節でした。そしてその豊かさの中に、正阿弥政徳の鐔もまた確かに息づいていたのです。

本稿では、元禄文化という大きな文脈の中に正阿弥を位置づけながら、刀装具が時代の美意識とどのように共鳴していたかを探ってみたいと思います。

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元禄京都の金工の重鎮

元禄十四年(一七〇一)の銘を持つ正阿弥政徳の鐔は、現存する正阿弥の在銘作の中でも特に貴重なものの一つです。木瓜形(もっこうがた)の鉄地に薄肉彫りを施し、金銀の象嵌で花卉(かき)の文様を表したこの作品は、自身銘と制作年紀の両方が明らかな打刀鐔としては古い部類に属します。

正阿弥政徳は、この時代の京正阿弥派の中で最も広く名声を得ていた作者でした。その意匠は、寛文・延宝から元禄にかけて京都を中心に大いに好まれた様式美を体現しています。柔らかく華やいだ花卉の文様は、同時代の尾形光琳や野々村仁清、宮崎友禅といった芸術家たちの作風と通じるものがあります。

掌中に収まる小品でありながら、この鐔は元禄という時代の文化を見事に伝えています。鐔という小さな金属の円盤の上に、時代の美意識が凝縮されているのです。

また、政徳とほぼ同時代の金工・埋忠重義(うめただしげよし)の鐔にも、吉野と龍田を題材にした意匠の作品が残されています。寛文二年(一六六二)の年紀を持つこの鐔は、鉄地に鋤出し彫りと地透し、象嵌を施した精緻な作で、京都の富裕な文化を体現しています。政徳の鐔と埋忠の鐔を並べて見ると、この時代の京都で正阿弥と埋忠が深い関係にあったことが、作風の共通性からも読み取れます。

光琳・仁清・友禅と同じ時代の空気

元禄という時代を語るとき、尾形光琳の「燕子花図屏風」や「紅白梅図屏風」、野々村仁清の「色絵吉野山国茶碗」、そして宮崎友禅が創始した友禅染の小袖模様が思い浮かびます。これらはいずれも、寛文・延宝から元禄にかけての京都を中心とした豊かな装飾文化の所産です。

正阿弥政徳の鐔の意匠は、この友禅模様に通じるものがあります。「友禅模様に通う意匠であることも興味を引く。そして、これが上品に豊かで華やかな元禄時代の京の文化あるいは趣味を代表する意匠であることも了解することができる」──一次資料の著者はそのように述べています。

刀装具は、絵画や陶器と並んで、時代の美意識を映す鏡でした。光琳が屏風に描き、仁清が陶器に施し、友禅が小袖に染めたのと同じ時代の感覚が、正阿弥政徳の鐔の上にも生きていたのです。

この時代はまだ、江戸初期の町彫り第一期の終わり頃にあたります。横谷宗珉・奈良利寿・土屋安親といった名工たちが金工界を席巻するのは、この鐔が作られてからさらに十五年から二十年後のことです。正阿弥政徳の鐔は、そうした名工たちが登場する直前の、元禄文化の最盛期を記録した作品でもあります。

世之介の拵

元禄文化を語るうえで欠かせない人物が、井原西鶴です。松尾芭蕉・近松門左衛門と並んで元禄の三文豪と称される西鶴は、天和・貞享から元禄前半にかけて次々と浮世草子を発表しました。

その代表作「好色一代男」の主人公・世之介は、親から受け継いだ莫大な財産を遊興に費やした上方の富裕な町人です。西鶴はこの世之介の装束を細かく描写しており、その中に刀装具に関する記述があります。

「七所の大脇指」という表現は、目貫・小柄・笄・縁・頭など七つ揃いの金具を指すものと考えられます。そして「鉄の古鐔ちいさく、柄長く、金の四目貫うつて」という記述は、小ぶりで古びた鉄鐔に、金の目貫を四つ(表裏各一対)打った拵を描いています。

この記述から、元禄の富裕な上方町人が好んだ拵の姿が浮かび上がります。幕末の江戸町人が好んだような、各種の色金を多用した華やかな金具とは異なり、落ち着いた中に華やぎのある拵です。

一次資料の著者は、世之介の拵に相応しい鐔として、小ぶりな金山鐔(かなやまつば)を想定しています。幕末の金工書「金工鐔寄」には、「金山は小振りで大透かしのものが多く、町人に好まれた」という記述があります。武士の大刀に比べて小ぶりな鐔は、町人の手にも馴染みやすく、実用的でありながら装飾性も備えていました。

世之介の拵を想像しながら正阿弥政徳の鐔を見ると、元禄という時代の美意識が、刀装具という小さな世界の中に凝縮されていることに気づかされます。

小道具売りが運んだ流行

元禄文化の豊かさを支えたのは、作り手だけではありませんでした。作品を全国に運んだ「流通」の力も、正阿弥の広がりを支えた重要な要素でした。

西鶴の別の作品「武道伝来記」(貞享四年刊)には、刀装具の行商人を描いた興味深い場面があります。仇討ちの旅に出た若侍・亀石仁七郎が、身を隠すために「小道具売り」に扮するという場面です。

仁七郎は京の道具屋街で鐔・目貫・小柄などを仕入れ、小者に背負い箱を担がせて旅を続けます。道中で大身の武士に呼び止められ、茶屋の一室で商品を広げると、武士は一枚の鐔を手に取り「ほう、これはまた珍らかな……」と思わず声を漏らします。

この場面は、元禄時代の刀装具がどのように流通していたかを生き生きと伝えています。刀装具は店舗で売られるだけでなく、行商人の背負い箱に入って街道を越え、遠く離れた地方へと運ばれていきました。正阿弥の意匠が全国にあまねく広まった背景には、こうした「運び手」たちの存在があったのです。

京の五条あたりの刀屋では、京市中や近隣の街道筋の品物が比較的安く手に入ったといいます。そこで仕入れた品々が行商人の箱に詰められ、全国へと旅立っていく。正阿弥の鐔や目貫もまた、そうした流通の流れに乗って、日本中の武士や町人の手に渡っていったのでしょう。

元禄の刀装具と武士の日常

元禄という時代は、武士にとって刀装具の意味が大きく変化した時期でもあります。元和元禄の長い平和の時代を経て、刀は実戦の武器から武士の身分を表す「形」へと変わりつつありました。それにともない、刀装具に求められるものも変化していきます。

実戦の時代には、刀装具には最上の強度と持ち易さが求められました。地透鐔が大量に作られたのは、実戦に即した実用性があったからです。しかし元禄の平和の世になると、刀装具に求められるのは実用性よりも「見た目」と「格式」になっていきます。刀装具は武士の社会的地位や美意識を表す「身分の証明」となったのです。

元禄期の大名家の中には、刀装具に大変な気を遣った人もいました。細川三斎は、自ら刀装具の意匠を考えて金工に指示を与えたことで知られています。寛永年間に作られた刀装具には、三斎の山荘や山水の意匠を用いた作品が多く、大名が刀装具の意匠にどれほど深く関わっていたかを物語っています。

元禄期の正阿弥の作品もまた、こうした時代の要請に応える形で生み出されました。実戦の時代の地透鐔とは異なり、元禄期の正阿弥の鐔には、平和の時代の豊かな美意識が投影されています。正阿弥政徳の鐔に見られる柔らかな花卉の文様は、まさにその象徴といえるでしょう。

元禄以前と以後

元禄時代の正阿弥を理解するためには、その前後の時代との関係を押さえておく必要があります。

元禄以前、すなわち寛永文化の時代(元和・寛永頃から明暦頃まで)は、江戸初期の文化が形成された時期です。この時代には、本阿弥光悦や俵屋宗達が活躍し、京都では独自の美意識が育まれていました。正阿弥もこの時代から活動を続けており、寛文・延宝頃には鉄や真鍮の地金を主体とした作品が多く作られていました。

元禄以後、宝暦・正徳・享保頃になると、横谷宗珉・奈良利寿・土屋安親といった名工が江戸において頭角を現します。彼らは赤銅魚子地に高彫りで金銀色絵を施す技法を大成させ、江戸の金工界を席巻しました。

この流れの中で、正阿弥政徳の時代は一つの転換点にあたります。まだ赤銅魚子地の高彫り七所金具が主流ではなく、鉄地に金銀象嵌を施した作風が京都で好まれていた時代。その最後の輝きを体現したのが、正阿弥政徳の鐔であったといえるでしょう。

また、元禄期の正阿弥は京都の正阿弥政徳だけではありません。無銘の京正阿弥による透鐔も多く残されており、丸形の鉄地に鋤出し肉彫りと地透し、金の布目象嵌を施した典型的な作例が知られています。こうした作品は在銘のものが少ないため、今日では正確な作者を特定することが難しい状況にありますが、京正阿弥の技術水準の高さを示す重要な作例です。

幕末から明治へ

元禄の輝きから約百五十年、明治五年(一八七二)の廃刀令によって、正阿弥を含む刀装具全般の制作は事実上終わりを迎えます。幕末にかけて、各地の正阿弥の中には作位の上がらない品が大量に作られたことは否めません。しかし、それは正阿弥の本質ではなく、幕末の社会的混乱と刀装具需要の急激な増大が生んだ歴史的な現象です。

幕末の正阿弥の中には、時代の激動に応じて優れた作品を生み出した人もいました。幕末の動乱の中で独自の作風を確立した金工たちの存在は、正阿弥の最後の輝きを物語っています。

廃刀令以後、刀装具は工芸品としての新たな生命を歩み始めます。明治・大正から戦前にかけて、刀装具の鑑賞家たちは秋山久作やその一門によって透鐔の優秀性を高く評価し、古正阿弥の再評価を進めました。室町時代から幕末に至る正阿弥の長い歴史は、刀装具という工芸の幅広い可能性を示すものでもあります。

掌中の小品が伝える時代の文化

元禄十四年十一月、京都西陣の正阿弥政徳が一枚の鐔を完成させた。その翌月、大石内蔵助率いる四十七士が吉良邸に討ち入った。同じ時代の空気の中で、光琳は絵を描き、仁清は陶器を焼き、友禅は小袖を染め、そして正阿弥は鐔を彫っていた。

刀装具は、武士の道具であると同時に、時代の文化を映す鏡でもありました。掌中に収まる小さな金属の円盤の上に、その時代の美意識・技術・流行・社会の空気が凝縮されているのです。

正阿弥政徳の鐔を手にするとき、私たちは単に一枚の鐔を見ているのではありません。元禄という豊かな時代の文化全体を、その小品を通して垣間見ているのです。

刀装具の世界に入ったばかりの方も、長年の愛好者の方も、ぜひ一度、元禄という時代の文脈の中に正阿弥の作品を置いてみてください。光琳の屏風、仁清の茶碗、友禅の小袖と並べて眺めるとき、正阿弥の鐔は単なる「刀の部品」ではなく、日本文化史の一ページを飾る芸術作品として、新たな輝きを放つことでしょう。

「大道無門、千差路有り」──刀装具の世界への入り口は、どこにでもあります。元禄文化という大きな扉を開いて、正阿弥の世界へと踏み込んでみてください。

参考文献

本記事は、以下の書籍に基づいて構成しています。

『文化の中の刀装具』橋本晴夫 著、里文出版 出版、2006年(平成18年)10月 刊

一部の表現や解釈については筆者の視点を含むものであり、歴史的資料の解読・編集にあたっては慎重を期しています。

名もなき運び手と、元禄の美意識

元禄という時代は、長く続いた戦国の気風がようやく落ち着き、幕府の政治が武力から礼節や学問を重んじる方向へとすっかり舵を切った、平和の定着期にあたる。とりわけ上方を中心として、交通網の整備とともに莫大な富を蓄えた町人たちが台頭し、彼らの経済力と活気が新しい文化の原動力となっていった。

かつて人々が苦難の多い世の中を「憂世(うきよ)」と呼んだのに対し、この時代には現世を肯定し、明るく楽しもうとする「浮世」という言葉が定着する。そうした楽観的で自由な空気感が、文学や美術を大いに花開かせ、現代にも通じる豊かで洗練された美意識を育んでいったのだと思う。

正阿弥の刀装具もまた、そうしたおおらかで豊かな文化の潮流のなかに確かに存在していた。興味深いのは、その優れた意匠が京都の工房で生み出されたというだけでなく、「小道具売り」と呼ばれる行商人たちを通じて、街道伝いに全国津々浦々へと広がっていったと考えられることだ。

背負い箱を担ぎ、京の都から地方の武家屋敷や町人のもとへ。名前すら歴史に残されていない数多の運び手たちが、新しい流行と良い品を多くの人々の手へと渡らせた功績は、非常に大きいものだったと感じる。美術品がただ一部の蔵に大切に眠るだけでなく、実用品として人々の帯に結ばれ、時代の日常の風景に溶け込んでいったのは、彼らの泥臭い足跡があればこそだろう。

今回の記事を執筆するにあたり、参考とした『文化の中の刀装具』には、次のような一文がある。

小道具の刀装具にも、刀剣と同じように名品からごく一般的な実用本位に制作された品まで幅広く存在している。それらの中の優れた品々に美術性や芸術性を発見し、なるべく数多くの優れた作品を追求して、それらを豊かな気持ちで楽しみたいものである。

名工が魂を込めた「名品」も、名もなき職人たちが打ち、名もなき行商人が全国へ運んだ「実用品」も、それぞれに独自の背景と魅力を持っている。

格式だけにとらわれず、広く人々に開かれた元禄という時代の空気感。それを行商人の背負い箱のような身近な視点から想像してみるのも、刀装具のまた別の楽しみ方ではないだろうか。

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