刀装具の愛好家の間で、「透鐔の行き着くところは尾張である」という言葉がよく聞かれます。
鉄地透鐔の世界において、尾張鐔はその頂点に置かれてきました。「紫錆(むらさきさび)」と呼ばれる深い紫色を帯びた地鉄、豊かな平肉、力強い造り込み──これらが渾然一体となった尾張鐔の存在感は、他の透鐔の追随を許さないと言われます。
しかし、ここに奇妙な事実があります。
これほどの名声を誇る尾張鐔でありながら、確かな在銘品が一点も知られていません。江戸時代を遡る文献資料も存在しません。「尾張鐔」という分類名そのものが、明治以降に生まれた比較的新しい言葉なのです。
名声は揺るぎないのに、その実体は霧の中にある。これが尾張鐔という存在の本質的な矛盾であり、愛好家を惹きつけてやまない深い謎でもあります。長きにわたり愛好家を悩ませ、同時に惹きつけてきたこの「尾張鐔の謎」に、本稿では正面から向き合ってみたいと思います。
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もくじ
「尾張鐔」という言葉の誕生
まず確認しておきたいのは、「尾張鐔」という分類が、いつ・誰によって生み出されたかという問題です。
江戸時代の刀装具文献──『萬宝全書 彫物目利彩金抄』『本邦刀剣考』『刀盤賞鑒口訣』『装剣奇賞』など──を繙いても、「尾張鐔」という言葉は一つも出てきません。江戸時代には「根抜け」という言葉があり、分類のできない古い鐔を指す用語として使われていましたが、尾張という地名による明確な分類は存在しなかったのです。
この「尾張鐔」という分類を世に広め、確立させたのは、幕末から昭和初期にかけて活躍した研究者・白賁秋山久作です。秋山久作の薫陶を受けた堀井磊の『尾張鐔考』(昭和六年)には、「透鐔中の覇王である」との力強い記述が残されています。
また秋山久作自身も、ある四方花弁の透鐔の押形に「これほどの地透鐔はまだ見たことがない」と絶賛する書き込みを残しています。彼のこうした絶対的な評価が、現在に至る「尾張鐔=透鐔の王者」という認識の強固な土台を作りました。
しかし、この分類と名声が、江戸時代から連綿と続くものではなく、明治以降の近代の研究者によって見出されたものであるという事実は、尾張鐔の性格を考える上での非常に重要な前提となります。
正阿弥との本質的な違い
尾張鐔を理解する上で、鑑定の現場でも特に重要な視点となるのが、正阿弥(しょうあみ)との比較です。
正阿弥と尾張は、どちらも室町~桃山時代の人々を魅了した鉄地透鐔の代表的な分類として並び称されることが多いのですが、両者の間には制作の出発点において根本的な違いがあります。
それは、「正阿弥は金工であり、尾張は鐔工である」という点です。
「金工か鐔工か」という区別は、単なる職種や呼び名の違いではありません。正阿弥は本来「銀師(しろがねし)」であり、高彫り・容彫り・魚子地・磨地など、立体的な彫金の技術を日常的に駆使していました。そのため、彼らが手がけた鉄地透鐔にも、その「金工としての感覚」が自然と反映されます。
一方の尾張は、純粋に鐔の制作に特化した職人(鐔工)の仕事であり、技術的な出発点が根本的に異なります。この違いが、両者の鑑別における最も基本的な着眼点とされています。
この違いは、作品の外観に具体的な差として現れます。
正阿弥の鉄地透鐔の主な特徴
- 切羽台が太刀の切羽に似た小判形で、丁寧な仕上がり
- 左右の穴(笄穴・小柄穴)の均整が良い
- 磨地(なめらかに磨いた地肌)主体で、仕上げが細かい
- 透かしの縁(透かし際)に、丸みを帯びた「肉彫り感」が混じることが多い
- 意匠に柔らかい動きや流れがある
尾張鐔の主な特徴
- 鎚目地(ハンマーで叩いた野趣ある地肌)が主体
- 透かしに肉彫り感がなく、切り立った急峻な透かしが多い
- 地金に他流派を圧倒する強い剛性感がある
- 左右上下が対称的(シンメトリー)な、謹直で緊張感のある意匠が多い
とりわけ「透かし際の肉彫り感の有無」という視点は、正阿弥と尾張の鑑別を試みる際に、意匠の題材や形だけでなく、彫りの質感そのものに目を向けるための極めて重要な着眼点となります。
本当に「尾張」で生まれたのか?
「尾張鐔」という名称は、当然ながら尾張国(現在の愛知県西部)での制作を示唆しています。しかし、この産地論については、近年慎重な見方が強まっています。本当に最初から尾張の地で生まれたものなのでしょうか。
室町時代から安土桃山時代にかけて、隣国の美濃(現在の岐阜県南部)は、名だたる関鍛冶などを擁する日本最大の刀剣生産地でした。膨大な数の刀が作られる場所には、当然それに装着する金具を作る職人も大集団で必要とされます。
「刀工の大集団がいた美濃に、刀装具の製作集団もいたと考えるのが自然である」。すなわち、尾張鐔(および金山鐔)の最初期のルーツは、尾張国ではなく美濃の刀工集団の周辺にあったのではないか、という見方です。
また興味深い説として、著名な刀工との関連も指摘されています。清洲(尾張)に拠点を置いた刀工である信家や山吉兵衛の作に現れる「鉄骨」の現れ方や地鉄の質感が、尾張鐔や金山鐔と非常に似ているのです。
永禄十年(1567年)に織田信長が美濃を平定した際、刀工や鐔工の集団が信長体制下で尾張(清洲など)へ移住した可能性も十分に考えられます。最初は美濃で発生した鐔工集団が、後に尾張へ移り、そこで刀工たちと技術的交流を持ちながら独自の作風を完成させた──これが「尾張鐔」の産地の真実なのかもしれません。
「根抜け」という言葉が示すもの
尾張鐔の謎を考える上で、もうひとつ刀装具の世界にある興味深い概念を紹介しましょう。「根抜け」という言葉です。
江戸時代、鑑定家たちの間で使われていた「根抜け」という言葉は、「分類の困難な非常に古い鐔工の作」「根っこが抜け失せてしまったように大本が判らないほど古い」という意味合いで使われていました。
現代の私たちは、古い透鐔を見るとつい「これは正阿弥か、尾張か、それとも金山か」と無理に分類箱に押し込もうとしがちです。しかし現実には、そのどれとも言い難い名品が数多く存在します。そのような鐔に対して、「わからないものはわからない、極めて古い作だ」と正直に認める「根抜け」という概念を復活させることが、かえって鑑定や分類の誠実な出発点になるのではないか、という提言もなされています。
戦後の諸説と現在の到達点
近代以降の尾張鐔研究は、様々な研究者の「眼」によって深められてきました。大きく分けると、「笹野説」(笹野大行)と「講座説」(新版日本刀講座)などの見解に代表されます。
同じ尾張鐔の素朴な味わいを前にしても、その評価は人によって大きく異なります。
ある説(講座説など)が、京透の洗練さを「都会人」とし、尾張透の無骨さを「田舎者」の作と対比して論じたのに対し、笹野説などは、尾張透にこそ「骨太な生命感と文化的な雄勁さ(力強さ)」があるとして最高級の称賛を与えました。
かつて秋山久作が残した「地物の内 武人の目より見て 尾州物に優る物 有る事なし」という言葉は、尾張鐔の絶対的な格調を証明する文言として今も引かれ続けています。どのような言葉で尾張鐔を語るかは、そのままその人の「美意識」の問題でもあり、尾張鐔がいかに多くの人を魅了してきたかの証明でもあります。
現在のところ、尾張鐔とその兄弟分とも言える金山鐔の区分は、主として「鉄骨の現れ方」と「意匠の性格(幾何学的か絵画的か)」によって行われています。鉄骨が隆々として強固な鉄質に抽象的・幾何学的な透かしがあるものを金山とし、鉄骨が比較的穏やかで、具象的・絵画的な意匠を持つものを尾張とするのが一般的です。しかしこれも絶対的な基準ではなく、研究はまだ途上にあると言えるでしょう。
鉄の美
学術的な議論を離れて、最後に尾張鐔の純粋な鑑賞的魅力についても触れておきましょう。
尾張鐔を語る時に必ず登場するのが「紫錆(むらさきさび)」という言葉です。これは単なる色の名前ではありません。長い長い年月をかけて良質な鉄がゆっくりと酸化し、光に透かすと深い紫色を帯びて見える、極上の錆の層のことを指します。
「千金に換え難い」と評されるこの紫錆の美しさは、単なる誇張ではありません。刀剣の世界では白く光る研ぎ上げた鉄質を愛でるのに対し、鉄鐔の世界では、時間が育てた深い錆色を何よりも大切にします。豊かな平肉(表面のふくらみ)、緊張感のある透かし、そしてこの「紫錆」。これらが渾然一体となった尾張鐔は、その錆色の美しさにおいて、長らく他の追随を許さない王者として語り継がれてきました。
謎が残るからこそ
「尾張鐔」という分類は明治以降に生まれたもので、確かな在銘品も江戸時代を遡る文献資料も存在しません。産地は本当に尾張なのか、誰が作ったのか。正確なことは深い霧の中にあります。
しかしそれでも、尾張鐔は「透鐔の王者」として揺るぎない地位を保ち続けています。文献という「頭の知識」がなくても、実見した際のその圧倒的な存在感、鉄の味が、これを名品だと無言のうちに証明しているからです。
「感性と美学による鑑賞」と「地道な実証研究」。この二つが車の両輪として機能することが求められています。謎が残るからこそ、愛好家は尾張鐔を手に取り、その紫を帯びた鉄の深みに問いかけ続ける──。その問いに答えるのは、最終的には文献ではなく、残された小宇宙のような「作品そのもの」なのかもしれません。
参考文献
本記事は、以下の書籍に基づいて構成しています。
『文化の中の刀装具』橋本晴夫 著、里文出版 出版、2006年(平成18年)10月 刊
一部の表現や解釈については筆者の視点を含むものであり、歴史的資料の解読・編集にあたっては慎重を期しています。
歴史に名を残さなかった職人たち
今回の記事を通じて尾張鐔の謎を追いかけていく中で、最後にどうしても触れておきたい一文にぶつかった。
実用本位の武具製作者であった無名工の記録を歴史は残さない。
この短くも重い言葉には、刀装具という分野が抱える本質的な宿命と、それゆえの奥深さが凝縮されているように思う。
私たちは歴史や美術を振り返るとき、どうしても誰が作ったのか、いつの時代のものなのかという記号を求めてしまう。在銘であれば安心し、有名な武将が所持していたという物語があれば、それだけで価値を感じやすくなる。
しかし、尾張鐔にはそのどちらもない。江戸時代の記録すらなく、尾張鐔という立派な名前が付けられ美術的な評価が確立したのは、はるか後世、近代になってからのことだ。
作った職人たちは、自分の名が数百年後に透鐔の王者として語り継がれることなど、想像すらしていなかっただろう。彼らにとって鐔作りとは、後世に名を残すための芸術活動ではなく、血生臭い戦乱の世において、武士たちが己の命を預けるに足る実用の道具を黙々と打ち鍛える、日々の生業でしかなかったはずだ。
そこには自己顕示欲も、作家性という概念もない。ただ純粋に強さと使いやすさ、そして武具としての簡素な美だけが求められた。
しかし、奇妙なことに、名前や記録といった人間のエゴがすべて削ぎ落とされたからこそ、かえって作品そのものの圧倒的な力が浮き彫りになることがある。
民藝運動の創始者である柳宗悦は、かつて「無銘の職人が作る日用品の中にこそ、作為のない至上の美が宿っている」と看破した。用の美と呼ばれるこの境地は、まさに尾張鐔の姿そのものではないだろうか。
自己表現のために奇をてらうのではなく、ただひたすらに鉄を鍛え、削り、実用に耐えうる限界まで無駄を省いていった結果として生まれた、あの張り詰めたような緊張感と、途方もない時間を経てまとった紫錆という極上の衣。
それは、特定の誰かの天才的な閃きではなく、何代にもわたり無言で技術を繋いできた名もなき職人という集団が、長い時間をかけて到達した究極の造形美なのだ。
名前すら残されていない名もなき職人たちが、何百年も後の現代人をこれほどまでに魅了する物を作っていたという事実。
歴史というものは、時に非情で勝者の記録しか残さないと言う。しかし、彼らが黙々と鉄に込めた情熱と誇りは、決して消え去ることなく、確かな重量と冷たさを持って、今も私たちの手の中にある。
わからないものはわからないと認め、ラベルや理屈を捨てて、ただ己の感性だけでその鉄と対峙すること。尾張鐔は、鑑賞者にそんな誠実な覚悟を求めているような気がしてならない。

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