日本刀を飾る刀装具は、単なる装飾にとどまりません。 武家の身分や美意識を映し出すこれらの彫金は、時に権威の象徴として、時に精神性を語る手がかりとして重んじられてきました。 その中でも後藤家は、四百年にわたり将軍家や大名に仕え、「家彫」と呼ばれる様式とその継承体制のもとに刀装具の歴史を築き上げた存在です。
後藤家は、初代祐乗以来、室町幕府をはじめとする歴代の将軍家に仕え、明治時代までおよそ四百年にわたり彫金技術を継承してきた名門です。 その間に築かれた「家彫」の様式とその体制は、単なる技法の継承を超え、格式・象徴・審美を担う仕組みとして確立されていきました。
なかでも、初代祐乗、二代宗乗、三代乗真の三人は「上三代」と呼ばれ、その作風と技術は後藤家の家彫の基礎を成すものとして後世に高く評価されています。 さらに四代光乗は、これら三代の様式を統合し、家彫の完成者としての位置づけを得るに至りました。
本稿では、室町後期の文化的背景とともに、家彫という理念がどのように誕生し、確立していったのかを辿ります。
もくじ
東山文化と刀装具の台頭
15世紀末から16世紀初頭、室町時代後期の京都では「東山文化」と呼ばれる美術工芸の精華が花開きました。 足利義政のもと、将軍家は唐物・国産を問わず優れた工芸品を蒐集・愛玩し、茶の湯、庭園、能などの諸芸と並んで、刀装具もその鑑賞対象として扱われるようになります。
祐乗の作品は義政の目に留まり、やがて御用金工として召し抱えられました。 九曜、雁、水鳥の三笄をはじめとする彼の作品は「東山御物」として目録に記録され、後世にまでその名を伝えます。
この時代、刀剣は単なる武器ではなく、持ち主の身分や精神性を示す象徴であり、その装剣具は美意識と格式の体現者として重要な位置を占めました。 それまで町の金工職人が個別に制作していた刀装具に代わり、将軍家の公式な意匠に沿う格式高い作品が求められるようになり、制度的な工房体制の必要性が高まります。
こうした要請の中から、「家彫」という仕組みが芽生えていきました。 将軍家や公家、大名の刀装具を手がける役として、後藤家は祐乗の代にその基礎を築き、武家文化の中における刀装具の象徴性を高めていくことになります。
初代・祐乗の革新──家彫の原点を築いた名工
後藤祐乗(ごとう ゆうじょう)は、後藤基綱の嫡男として京都に生まれ、幼名を経光丸、諱は正奥と伝えられます。 右衛門尉、法印の号も有し、永享十二年(1440)に生まれ、永正九年(1512)に没しました。
幼少の頃から彫刻の才を示し、八歳で彫った土猿が鳥にさらわれ、それを見た足利義政に才能を認められたという逸話が伝わります。 以後、義政に仕えて剣具の金工を任され、後花園天皇の勅命によって神秘の宝剣を制作するなど、将軍家・朝廷の双方に仕える存在となりました。
祐乗の技術的特徴は、桐紋に代表されるように、赤銅地に金の厚板を鑞付けし、それを彫り下げる手法にあります。 また、立体的な肉置きや奥行きのある目玉、張り出した眉、鋭く流れる毛彫りなど、彫りの深さと緻密さを兼ね備えた表現が際立っています。
とくに獅子や龍の描写では、目の彫りの奥深さや、筋肉の隆起、見返り構図の取り方に至るまで、生命感と緊張感が共存する彫技として後世に強い影響を与えました。
その作風と技術体系は、後藤家における「家彫」の起点となり、以後の一子相伝・無銘制作という体制的な枠組みを形づくる礎となったのです。
無銘制作と折紙制度の成立
初期の後藤家作品の多くは「無銘」で制作されました。 これは、家彫が一子相伝の体制で継承される中、個人銘よりも“家の作風”そのものに重きを置いたためです。
しかし無銘であるがゆえに、後世の鑑定において代の特定は困難を極め、作品の真贋判定に課題が残されました。 この問題に対応する形で、江戸時代には宗家当主らによって「極め」、すなわち折紙による鑑定制度が整備されていきます。
極めは、元和年間から顕乗・覚乗・程乗らによって体系化され、折紙の発行や裏銘の刻印といった方法で鑑定が行われました。 彼らは特に上三代(祐乗・宗乗・乗真)の作品に対して積極的に極めを施し、それが現在にまで影響を及ぼしています。
一方で、極めの過程で後代の写し作品を“代上げ”して古い代の作として扱う例や、既存の作品に極め銘を追加する事例も確認されており、すべての極めが客観的であるとは限りません。 とりわけ光乗や光孝といった後代の名工たちによる再作・改作は、後藤家の伝統を維持する一方で、鑑定をより複雑なものとしました。
二代・宗乗と格式の整備
二代・後藤宗乗は、祐乗の子にして、家彫という制度を「個人の革新」から「家の伝統」へと確立させた人物です。
宗乗の作品は、左右対称性に優れ、落ち着いた構図を特徴とし、形の安定感に重きが置かれています。 これは、父・祐乗に見られた動的で躍動感ある彫りとは対照的であり、より格式と品格を意識した構成といえるでしょう。
具体的には、龍や獅子といった定番の画題においても、祐乗が採ったような見返り構図や筋肉の張りをやや抑え、滑らかで穏やかな印象の表現に置き換えられています。
宗乗の時代には、図案の保存や写しの精度も高まり、同一意匠の継承が一層組織的に整えられていきました。 こうした取り組みによって、「家彫」は一子相伝の形式を保ちながら、作風の統一と意匠の伝承という、後藤家の根幹を成す仕組みが整えられたのです。
三代・乗真──動と詩情の復活
三代・後藤乗真は、宗乗の嫡男であり、後藤家の伝統を継ぎながらも、再び動的表現の魅力を取り戻した人物とされています。 俗名を二郎、諱は吉久。強勇な性格であったとされ、それが作風にも表れています。
彼の作品は、宗乗が中心に構図を安定させたのに対し、左右に広がりを持たせた絵画的な構成を取り入れており、筋肉の起伏や毛並みの流れなどに見られる抒情的な表現が特徴です。 たとえば、倶利迦羅図笄や獅子図などにおいては、力強さと精緻さが共存する作風が顕著です。
また、乗真は四代・光乗とともに焼付鑞の技術を開発したと伝えられており、これは色絵の装飾表現に画期的な進展をもたらしました。
彼は永禄五年(1562)、凶賊来襲の際に戦死し、享年五十一とされます。 死の間際に詠んだとされる辞世の歌「五とせあまり ただかりそめの 雨やどり はれてぞかえる もとのふるさと」は、後藤家の記録に深く残されています。
その遺志をまとめたとされる家訓「定法之事」は、嫡子・光乗に託され、宗家の制作体制と精神的基盤を伝える重要な文書として伝承されました。
四代・光乗と家彫の完成
四代・後藤光乗は、乗真の子であり、宗家の中でも特に評価の高い名工の一人です。 幼少より家業に励み、十五歳にしてすでに父を凌ぐ技量を備えていたと伝えられます。
光乗は、祐乗・宗乗・乗真までの三代の作風を継承すると同時に、特に初代祐乗の写しに取り組むことで自らの腕を磨いたとされます。 そのため現存する祐乗作と極められた作品の中には、光乗による精緻な写しが含まれている可能性が指摘されており、彼の作風は「祐乗らしさ」を最もよく理解するものとして後世に重視されました。
また、乗真とともに焼付鑞技法を開発したとも伝えられており、これは金工における色絵表現の幅を大きく広げる革新となりました。
作品には無銘のものが多く、銘を刻んだ作はきわめて少ないながら、その作風と技術によって光乗とされる作品は一定の評価を得ています。 祐乗・宗乗・乗真の様式を俯瞰し、技術・意匠・制度のすべてを集約した光乗は、後藤家における「家彫」の完成者として位置づけられるにふさわしい人物といえるでしょう。
結び
後藤家における「家彫」は、祐乗という天才の出現に始まり、その技術と美意識が二代・三代・四代と連綿と受け継がれる中で制度として定着し、武家社会における権威を象徴する存在へと成長していきました。
これは単なる彫金流派の継承ではなく、幕府に仕える御用金工として格式や様式を担い、美意識とともに“制度”として完成されたものでした。 一子相伝、無銘制作、極めによる統制といった仕組みが整えられたことで、家彫は明確な形式美と審美眼のもとに長く信頼を築くことができたのです。
しかし同時に、その伝統が厳格な規範となったことで、表現の自由や題材の拡がりに制約をもたらし、後の時代には町彫の隆盛といった動きの中で、後藤家作品が保守的と見なされる要因ともなっていきました。
それでもなお、後藤家が武家文化の中で果たした役割と「家彫」が体制として機能してきたその意義は、日本美術史の中で特筆すべきものといえるでしょう。
次回は、後藤家が幕府・金座といかに結びつき、また分家や鑑定制度を通じてその仕組みをいかに維持・発展させたのかを詳述します。
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参考文献
本記事は、以下の書籍に基づいて構成しています。
『刀装金工後藤家十七代』島田貞良・福士繁雄・関戸健吾 著、雄山閣出版、1973年(昭和48年)刊
彫金技法や家彫の様式とその体制に関する記述の多くは、上記書籍の本文および系譜記録を参照し、歴史的事実をもとに再構成しています。
強く惹かれた「後藤の目貫」
最初は、後藤の刀装具をなんとなく避けていた。
格式があるが値も張るという話も聞いていたし、自分が手を出すものではないと思っていた。
それよりも、自分にとって無理のない価格帯で、気に入ったものを一つずつ手に入れて、静かに楽しんでいた。
展示会などにもほとんど行ったことはなく、他者が所蔵している品を実際に見る機会もほぼなかった。
そんなふうに過ごしていたある日、ひとつの目貫を手に入れた。
後藤家の作とされたものだった。
初めて見たときの印象は「不気味で気持ちが悪い」だった。
それでも面白がって、何度か話のネタにしていたが、すぐ忘れてしまった。
それから二ヶ月ほど経った頃、ふとその目貫のことを思い出した。
もう一度、目の前で見てみたいと思った。
もしまた違和感があれば、それっきりにして忘れよう──と考えていた。
再び目にしたその目貫は、今度は強く魅力的に感じられた。
後藤家の仕事は、長い歳月と地道な工夫の積み重ねの中で育ってきたものだと思う。
祐乗の前にも、名もない金工師たちがいて、その積み重ねの先に今の形がある。
そう考えると、ひとつの作品の背後にあるものの大きさを感じる。
その時の私の感性に強く触れたのが、たまたま後藤の目貫だった。
それだけのことかもしれない。
しかし、全く興味すら持っていなかった後藤家について、もっと知りたい、もっと勉強したいと思うには、十分すぎる理由だった。
後藤家の作品は、何百年という長い時間のなかで、人の手から手へと渡り現代まで伝えられてきた。
それほどまでに大切にされてきた、美しく、素晴らしいものを世に遺してくれた金工師たちに、心から感謝。

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