もうひとつの後藤家──京に残された分家の矜持

後藤家は、刀装具の制作において長く宗家としての地位を保ち、格式ある「家彫」の系統として知られてきました。
江戸幕府をはじめとする将軍家や有力大名に仕えたその歴史は、権威と制度のもとに積み重ねられたものといえます。

その一方で、本家から枝分かれした分家の諸家は、江戸ではなく京都にとどまり、それぞれに家名を名乗りながら、後藤家の作法と技術を独自に継承していきました。
彼らは長く「脇後藤」と呼ばれ、本家に対する補助的な存在として位置づけられてきましたが、近年ではその評価の見直しが進んでいます。

京にとどまった分家たちは、激しく変化する江戸の武家文化とは異なる文脈の中で、後藤様式の核を保ち続けました。
町人文化や禁裡の御用といった限られた需要のなかで、過度な革新ではなく、むしろ静かな維持と深化に向かう制作姿勢を貫いています。

本稿では、従来の評価軸では捉えきれなかった「京後藤」の系譜に着目し、分家という立場でありながらも、独自の矜持と文化的意義を持ち続けたその姿を辿ります。
江戸本家と対をなす、もうひとつの後藤家のかたちを考察します。

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なぜ「脇後藤」ではなく「京後藤」なのか

刀装具の世界では、後藤家の本家から枝分かれした分家のことを、長らく「脇後藤(わきごとう)」と呼んできました。
しかしこの呼称には、ある種の「格下扱い」や「添え物」としての見方が含まれていることが否定できません。

実際、かつては脇後藤といえば「後藤本家の作の添え物ぐらいに見られがちなのが実状」であったと記されており、その評価は決して正当に測られたものではありませんでした。
「脇」という言葉自体が、本家を立てる代わりに支家を軽んじるような印象をもたらし、江戸時代の名残ともいえる価値観が、現代にまで引き継がれてしまっていたのです。

そうした呼称を見直し、より実態に即した名称として提案されたのが「京後藤」という呼び方です。
「脇」に込められた従属的な響きではなく、彼らが京都に根を張り、独自の歴史と技術を築いてきたことを踏まえた呼称。
それは本家とは異なるもうひとつの“正統”としての立場を示すものでもあります。

脇後藤という言い方には、知らず知らずのうちに刷り込まれたヒエラルキーがありました。
それに対し「京後藤」という呼び方には、時代や土地に根ざした誇りと、受け継がれてきた伝統への敬意が込められているのです。

京に残された分家

後藤家の歴史を語るうえで、宗家だけでなく分家の存在も欠かせません。
今日「京後藤」と呼ばれるこれらの家々は、もともと後藤光乗の子・徳乗と、その弟・長乗の系統から枝分かれして形成されたものです。

分家が成立した背景には、家の存続と繁栄を目的とした意図がありました。
職人の家系が断絶することは、蓄積された技術や格式が失われることを意味します。
そのため後藤家では、血統を複数に分配することで、ある種の「生命線」を保とうとしたのです。
この分派の流れは、明暦から万治年間(17世紀中頃)にかけて活発化し、のちに十五家が成立するに至りました。

宗家が江戸へと移住したのは寛文二年(1662年)ですが、この時点で既に十五家の分家が成立しており、それらはすべて京都にとどまり続けました。
本家が将軍家や諸大名の御用を主に担うようになっていく一方で、これら分家は京都の地で禁裏や町人、あるいは一部大名家の注文に応じて制作を行っていったのです。

ちなみに、唯一江戸へと移ったのは清乗家でしたが、それ以外の家々──喜兵衛家、七郎兵衛家、勘兵衛家、理兵衛家など──は、京都に居を構え、代々その地に根差した活動を展開しました。
これらの家では、初代の俗称(たとえば「喜兵衛」や「七郎兵衛」など)を家名の通称として継承し、作品や系譜に明確な特徴を与える一因ともなっています。

こうして生まれた十五家は、いずれも本家の一子相伝とは異なる形で家業を継承しながら、後藤家全体の技術的・形式的な多様性を担う存在となっていったのです。
そのほとんどが京都にとどまり続けたという事実こそ、「京後藤」という呼び方にふさわしい文化的背景であり、また今日において彼らの評価を見直す出発点にもなりうるのです。

伝統を守ることの誇り──京後藤の役割

京後藤と呼ばれる分家の多くは、江戸時代以降も京都にとどまり続けました。
この“とどまり続けた”という選択こそが、後藤家の伝統を静かに、しかし確かに支える重要な柱であったといえるでしょう。

京都という土地は、歴史的にも文化的にも、保守的な性格と古典的な美意識をたたえた場所です。
そうした環境の中で育まれた京後藤の仕事は、決して派手さや技術的革新に偏ることなく、むしろ様式の堅持や作法の厳格さに重きを置いたものでした。
これは、職人としての矜持であると同時に、後藤家の精神的な屋台骨を保つ役割でもあったのです。

とはいえ、制作環境としては決して恵まれていたとは言いがたく、本家が将軍家や諸大名の大口注文を得て技術の進展を見せる一方、京後藤は禁裡の御用や町人、大名家の一部など限られた依頼に応えるのみでした。
そのような中で、特に理兵衛家・勘兵衛家の二家は加賀藩から手厚い保護を受け、創作活動を支えられていたことが記録に残っています。

外からは「華やかさに欠ける」「品位にやや問題がある」といった評価もあったようですが、そうした見方こそ、京後藤があくまで形式と美意識を優先した証でもあります。
流行を追わず、あえて変わらぬ様式に自らを律したその姿勢にこそ、伝統工芸の本質が宿っていたといえるのではないでしょうか。

京後藤とは、単なる分家ではなく、「守る者」としての後藤家だったのかもしれません。
その控えめな佇まいのなかにこそ、日本的な美と誇りが今も息づいているのです。

覚乗の功績

京後藤の分家の中で、制作と制度の両面において重要な役割を果たした人物として、覚乗(かくじょう)が挙げられます。
長乗の次男として天正17年(1589年)に生まれた彼は、兄・立乗が分家独立したことにより家督を継ぎ、「勘兵衛」を名乗りました。

寛永年間には加賀藩主・前田利常の招きに応じて金沢に赴き、顕乗と交代で藩内に滞在するようになります。
加賀藩からは禄150石を与えられ、刀装具の制作にとどまらず、財務や調度品の管理、古作の鑑定にも携わったと伝えられています。

この時期、後藤家の作品を評価・分類する「極め(折紙)」制度の整備が進められ、初代祐乗や二代宗乗の作に対しても、系譜的・作風的な検証が重ねられていきました。
覚乗は、顕乗・程乗とともにこうした制度の確立に関与した人物の一人とされ、その鑑識眼と実務能力は高く評価されています。

制作面でも優れた技術を示しており、赤銅魚子地に高彫と金色絵を施した小柄作品が東京国立博物館に収蔵されています。
その細部には精緻な毛彫が施され、「名工と思われる」との評を得ています。

後水尾天皇の御剣装具制作にも携わり、晩年には前田家からの依頼を受けて、初期後藤作品の来歴や伝承を記録する業務にもあたりました。
制度、制作、記録──いずれの面においても、覚乗は京後藤の基盤を支える人物として際立った存在でした。

分家の一員という立場にありながらも、覚乗の仕事には“家彫”の理念を内包する確かさが見て取れます。
その姿は、形式の中に精神性を宿す後藤家の伝統が、京都においてもいかに深く継承されていたかを物語るものといえるでしょう。

一乗の登場

江戸時代も後期に入ると、後藤宗家は次第に行き詰まりの様相を呈していきます。
かつて将軍家や大名家の御用を一手に担っていた名門も、時代の変化とともに注文の減少や作風の硬直化に見舞われ、やがて革新の余地すら失われていきました。

そんな中、幕末の京において異彩を放ったのが、七郎右衛門家の出である一乗光代です。
文化二年(1805年)に家督を相続し、文政七年(1824年)に法橋に叙せられて「一乗」の名を得た彼は、以後、明治九年(1876年)に八十六歳で没するまで、京後藤の世界において卓越した存在感を示しました。

一乗の作品には、従来の後藤家の伝統を確かに踏まえながらも、それを時代にふさわしい形で昇華させる表現力が宿っていました。
その作風には、写実的な構図や丁寧な金象嵌、高彫りの力強さがあり、まさに「伝統と革新の融合」と呼ぶにふさわしいものです。

江戸本家が時代の変化にうまく適応できず「二進も三進もいかなくなってしまう」状況に陥るなかで、京にあって一乗が打ち出した新たな表現は、まさに後藤家にとっての希望の灯でもありました。
それは、単なる分家のひとりという枠を超えて、後藤家全体の芸術的な再生を導いた存在として、いま改めて評価されるべきでしょう。

彼の存在が私たちに教えてくれるのは、真に優れた伝統とは、時代に合わせて呼吸し直す力を内に秘めているということかもしれません。

京都に残された“正統”のかたち

後藤家の歴史を彩る数多の系譜の中で、京にとどまった分家たち──すなわち「京後藤」は、長らく「脇後藤」という呼び名のもとに、影の存在のように扱われてきました。
しかしその歩みを改めて辿ってみると、彼らこそが“正統”という言葉にふさわしいもうひとつの後藤家であったことが見えてきます。

本家が江戸に移り、武家政権の中心に深く関わるなかで、京後藤は京都の町に根を張り、古典的で保守的な美意識を絶やすことなく伝えてきました。
その土地の空気と、代々の作法と、顧客との距離感──すべてが彼らを「形式の守り手」として育て、文化の底流を支える役割を果たしていたのです。

「脇後藤」と呼ばれていた頃には、まるで主流の傍らに咲いた名もなき枝葉のように扱われることもありました。
けれども、そこに込められた丁寧な手仕事と、過度に主張せずとも奥ゆかしく漂う美の気配は、まさに“日本的な美”の縮図とも言えるものでした。

そしていま、「京後藤」という新たな呼称によって、彼らの立ち位置が見直されつつあります。
後藤家の伝統を途切れさせず、かつ、浮ついた流行に流されることなく己の作風を貫いた分家たち。
彼らの存在は、本家とは異なるルートで後藤家の価値を守り抜いた、もうひとつの「正統」のかたちにほかなりません。

伝統とは、表舞台だけで継がれるものではありません。
静かに、しかし確かに受け継がれたものが、文化の深層を形成していることもあるのです。
京後藤の存在は、その証であり、また現代における再発見の対象として、これからますます注目されていくことでしょう。

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参考文献

本記事は、以下の書籍に基づいて構成しています。

『京後藤の研究』辻本直男 監修、笠原光寿・秋元繁雄 著、秋元繁雄 出版、1988年(昭和63年)刊

京都にとどまった後藤分家十五家の系譜、制作環境、作例解説に関する記述は、上記書籍の本文および図版・家系図資料に基づいて構成しています。
「脇後藤」から「京後藤」への呼称の転換とその文化的背景についても、本書における問題提起と考察をもとに再構成しています。

静かな場所で、確かに続いていたこと

後藤家について少しずつ学ぶ中で、静かに続いていた系譜や、記録の少ない存在に目が向くようになった。
宗家や名工の名前の陰に、あまり語られてこなかった人たちの仕事があったことを、ようやく知った気がする。

銘のない作品や、系譜に載ってはいても詳細のわからないもの。
それらが、時代の中で必要とされ、今もなお目の前にあるということに、静かな驚きを感じた。

京都にとどまり、決して派手ではない形で続けられていた仕事。
形式を守り、姿勢を崩さず、必要以上に自己主張をすることもなく、ただ、そこにあるべき形をそのままのかたちで残していたように思う。

そして、それが今に伝わっていること自体が、すでにひとつの証のようにも感じられた。
誰かが見つけることを待っていたような、そんな静けさをまとっている。

後藤家の仕事は、静かに、しかし確かに、長い時間の中で積み上げられてきたものだった。
そのことが、今はとても重たく、けれど美しいものに感じられている。

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