家彫という言葉に象徴されるように、後藤家の刀装具は単なる職人仕事ではなく、家格や組織的な仕組みと共に紡がれてきた技術と格式の集積でした。 前編では、初代祐乗から四代光乗に至るまでの技術と思想の確立をたどりましたが、後編では、より構造的・社会的な視点から後藤家の役割を見直していきます。
幕府との密接な関係、金座役との兼任、分家の技術統制、真贋を司る極めの運用、そして町彫との対比によって際立つ家彫の在り方。 それらはすべて、後藤宗家という一つの中心軸が、時代と美術と政治の交差点にあって、どのようにその立場を維持し、変化と向き合ってきたかの記録です。
この後編では、そうした視点をもとに、後藤家がどのように「格式を担った彫金」としてその時代に応え、その仕組みがいかに次代へ継承されたかを紐解いていきます。
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もくじ
幕府と後藤家
後藤家が日本刀装具における特権的な地位を築き得た背景には、将軍家との深い関係がありました。それは単なる技術の評価ではなく、「幕府に仕える」という明確な奉公の構造を通じて制度的に位置づけられていたのです。
初代・祐乗が仕えたのは、第8代将軍・足利義政。その逸話は後藤家の記録にもたびたび登場します。幼少期、土猿を彫った祐乗(正奥)の技を聞きつけた義政が召し出し、「彫金によって将軍家に奉公したい」という願いを認めたというものです。武士としての出仕ではなく、彫物による仕官が認められたことは、当時としても極めて特異であり、これを機に後藤家は将軍家御用の金工としての地位を確立していきました。
将軍家に仕えるということは、単に仕事を任されるというだけではありません。後藤家の技術は、その後も足利幕府から織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康へと連綿と継承され、歴代の権勢家に奉仕し続けました。こうした関係性が、後藤家の作風や作品そのものに“格式”という価値を付与していくのです。
十代・光侶の代には、幕府から神田永富町に屋敷を拝領し、江戸と京都の双方で御用を勤めた記録も残ります。もはや後藤家は「町の名工」ではなく、政権中枢の求めに応える“幕臣金工”としての役割を担っていました。
さらに重要なのは、この仕官関係が後藤家の技術的継承を裏から支えたという点です。幕府の求める意匠に沿った図案や構成が、一定の枠組みとして継続的に保たれることにより、後藤家の作風はぶれることなく伝承されていきます。そこには、個の表現よりも「家としての型」を重視する価値観が強く働いていました。
このように、後藤家の家彫が格式として社会的に確立された背景には、幕府との信頼関係と、その中で果たした「御用金工」としての役割が大きく関係していたのです。
金座と後藤家
後藤家が幕府の御用金工として特別な立場を築いていく中で、もう一つ重要な役割を担っていたのが「金座」との関係でした。金座とは、幕府のもとで金貨の鋳造や秤量、品質管理を行う機関であり、いわば国家経済の根幹を担う存在です。この金座の職務を、後藤家の当主が歴代にわたって兼務したことは、彼らが単なる彫金師ではなかったことを如実に物語っています。
たとえば、十一代・顕常は、わずか十一歳で幕府より金座役に任命された記録が残っています。また、十三代・光晃の手控には、天保八年(1837)に幕命を受け、天保五両判の製造を行ったことが記されており、後藤家の技術が通貨制度にも密接に関与していたことがうかがえます。
金工師が通貨製造に関与するというのは、一見すると不思議に感じられるかもしれません。しかし、彫金技術における精緻な加工能力や、材質の見極めに長けた審美眼は、金貨の製造・管理においても極めて重要な能力とされました。とくに後藤家は、代々無銘の刀装具や折紙による極めに携わってきたこともあり、微細な差異を見抜く目と手の精度には定評がありました。
また、幕府にとっても、通貨の信頼性を確保するうえで「後藤家の技術と家格」は強い保証となり得ました。それは、刀装具において格式と真贋を司ってきた後藤家だからこそ担えた“制度的信用”でもありました。
こうした背景のもと、後藤家は金座の実務にも関与しながら、政治と経済の境界を越えた存在として、江戸幕府体制の中に深く根ざしていったのです。
分家と宗家の役割分担
後藤家の存在は宗家だけにとどまらず、多くの分家を抱える広大な一族によって支えられていました。こうした分家の存在は、単なる「家族的拡張」ではなく、宗家を中心とした明確な役割分担と技術的ヒエラルキーによって成り立っていました。
たとえば、宗家の仕事を補佐するために置かれた別家や分家の職人たちは、いかに高い技量を持っていたとしても、原則として宗家の意匠に従い、独自の創作性を抑えて制作を行いました。後藤家の中では、作品の形式・文様・構成において宗家が“正統”とされ、それを写すことが分家の役割とされていたのです。
こうした構造は、社会的信頼を担保する上でも効果的に機能しました。宗家の監修による写しであれば、たとえそれが分家の手によるものであっても、“格式を外れないもの”として武家層に安心して受け入れられたのです。これはちょうど、茶道や能楽における「流儀」や「家元制度」とも通じる文化的な安心構造といえるでしょう。
一方で、分家の側にも柔軟な展開が見られました。とくに江戸中期以降、諸藩の抱え工として活動した分家筋の職人たちは、宗家の意匠に倣いつつも、大名家の好みに応じた作風を展開することもありました。その結果、後藤様式を保持しつつも、地方ごとの微妙な違いが生まれていったのです。
このように宗家と分家の関係は、一見すると一方的な上下関係に見えますが、実際には「格式と実務」「権威と柔軟性」をうまく分担し、後藤家という彫金集団全体の信用を保つための戦略的構造だったといえるでしょう。
真贋をめぐる文化的権威
後藤家のもう一つの重要な役割が、「極め」と呼ばれる真贋の判定に関わる制度的活動でした。これは単なる目利きや感覚的判断ではなく、代々の宗家当主が自らの名をもって証明する、いわば文化的権威の行使でもあったのです。
後藤家では江戸時代中期から、「折紙」と呼ばれる鑑定証を発行する慣習が定着していきます。この折紙には、鑑定者の名前、作品の図柄、さらには鑽(きさみ)と呼ばれる印記の位置までもが記されていました。十二代・光理の時代には、すでにその記録が体系化されており、作品の図案や特徴までが記帳された台帳も残されています。これは、作風の継承が単なる口伝に留まらず、組織的に記録・管理されていたことを示しています。
極めに際しては、作品の文様や構図、さらには素材の状態から判断されるほか、キバタ(裏面や地金)への鑽を打つことにより、その真贋が視覚的にも示されました。この「鑽の丸印」は、今日でいうところの公式印章のような機能を果たしていたと考えられます。
しかし、その制度は常に公正であったとは限りません。顕乗や徳乗の時代には、過去に極めた作品を「格上げ」し、より格式の高い代として再極めする例もありました。さらに、十三代・光孝の代には、需要に応じて先祖の作を新たに制作し、当代作として極め銘を入れることも行われたとされます。これは、極めが単なる真贋の判断にとどまらず、商流や格式、さらには流通経路そのものを制御する仕組みにもなっていたことを示しています。
とはいえ、こうした極めの制度があったからこそ、後藤家の作品群は「どの代の誰による作か」という信頼性をもって評価される文化的枠組みを持ち得たのです。そしてそれは、後藤家にとって単なる鑑定行為を超え、刀装具という美術の分野における「家」と「名前」の機能を最も象徴するものでもありました。
家彫の完成と町彫の台頭
後藤家が築き上げてきた家彫の伝統は、長きにわたって刀装具の最高権威として位置づけられていました。初代・祐乗以来、室町から江戸にかけての四百年の間、将軍家に仕える家柄としての格式と共に、後藤家の作風は「伝統」と「型」を最も重んじる文化として熟成されていきました。しかしその栄光の裏には、時代の変化とともに避けがたい陰りも忍び寄っていたのです。
特に江戸中期以降、後藤家の作品は「格式の継承」に重きを置くあまり、題材・構図・表現において一定の制約を受けるようになりました。家格の高さが形式への執着を生み、結果として新鮮味や独創性に乏しくなったことは、同書でも率直に指摘されています。その間に、町彫と呼ばれる新たな勢力が頭角を現してきます。
町彫とは、特定の家系に属さず、都市部で自由な創作を行った彫金師たちの総称であり、一宮長常、津尋甫、大森英秀、尾崎直政、浜野矩随、石黒政常らが代表格です。彼らは写実的で大胆な構図、柔軟な題材選び、時には日常的な風俗や生き生きとした動物表現を得意とし、従来の後藤家作品とは一線を画す新風を巻き起こしました。
このような町彫の台頭は、幕末に向かう美術工芸界全体の変化を象徴するものであり、「型」を重んじる家彫と、「意匠」を追求する町彫という対比の中で、後藤家の評価は相対的に変化していきました。
それでもなお、家彫の技術そのものが衰退したわけではありません。十三代・光孝や十四代・光守のように、需要に応えるために先祖の作を写して補填したり、新たに極め銘を加えて制作する柔軟性も見られました。ただしそれは、町彫の自由な創作とは本質的に異なる動機と手続きに基づいていたといえます。
やがて明治維新を迎え、武家社会の崩壊と共に、刀装具そのものの需要が減退していく中で、後藤家の家彫も歴史的な役割を終えることになります。しかし、その技術と様式は、町彫や弟子筋、さらには現代の彫金師たちにも脈々と受け継がれ、日本美術史における確かな礎として位置づけられているのです。
刀装金工としての後藤家──その伝統はどこへ向かうのか
祐乗から始まり、宗家・分家・幕府・金座・極め・町彫と、複雑かつ豊かな関係性の中で成り立ってきた後藤家の歴史は、単なる系譜ではなく、日本における「美術と社会のかたち」そのものの縮図といえるかもしれません。
近代以降、刀装具そのものの役割が変容してもなお、後藤家が築いた様式や格式は、金工の技術史に確かな影響を与え続けています。 彫物が単なる装飾ではなく、思想や制度の反映であったこと──それは今を生きる私たちにも、創作や鑑賞の在り方について静かに問いかけてきます。
過去に確かに存在した「格式を担った彫金の伝統」。 その足跡をたどることは、単に美を語るだけでなく、日本という国の文化的土壌の深さと複雑さを照らし出す行為でもあるのです。
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参考文献
本記事は、以下の書籍に基づいて構成しています。
『刀装金工後藤家十七代』島田貞良・福士繁雄・関戸健吾 著、雄山閣出版、1973年(昭和48年)刊
彫金技法や家彫の様式とその体制に関する記述の多くは、上記書籍の本文および系譜記録を参照し、歴史的事実をもとに再構成しています。
静かな仕組みに支えられた、ひとつの美しさ
「格式」や「家彫」といった言葉に、最初はあまり関心が持てなかった。
きっちりと定められた様式や、制度としての仕組みは、どこか堅苦しく感じられたし、自分が惹かれる世界とは少し違うものだと思っていた。
しかし、後藤家の作品を見ていくうちに、その「決まりごと」が意味もなく続いていたわけではないことに気づくようになった。
極めや分家制度も含めて、それらはすべて、作品そのものを守り、残していくために必要だったのだと思う。
家彫という体制には、個人の名前を出さずに「家」の作風を保ち続けるという仕組みがある。
それが可能だったのは、何代にもわたって技術を受け継いできた人たちがいたからであり、それを裏で支えてきた関係性や信頼があったからこそなのだと感じる。
今までは、完成されたものを見て「いいな」と思っていたけれど、最近は、それがどうやってここまで残されてきたのかという背景にも目が向くようになった。
たぶんそれが、「格式」という言葉の意味が少しだけ実感としてわかった、ということなのかもしれない。
後藤家の仕事は、静かに、しかし確かに、長い時間の中で積み上げられてきたものだった。
そのことが、今はとても重たく、けれど美しいものに感じられている。

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