御家彫とは何か──後藤家が語る美の仕組みと信頼

名も刻まれず、ただ“家”の名のもとに作られた刀装具──。
後藤家は、四百年にわたって彫金の伝統を支え、制度の中で美を育てた一族でした。
この記事では、その足跡と思想をたどりながら、「家業」という視点から刀装具の文化的役割を見つめ直します。

👇️前回の記事はこちら

金工界における“御家彫”の意味

金工の世界において、「後藤家」という名は、特別な響きを持っています。それは単なる名工一代の功績にとどまらず、数百年にわたり継承されてきた技と格式、そして信頼を象徴する存在として、刀装具の歴史に深く刻まれてきたからです。

後藤家は、室町時代中期の初代・祐乗に始まり、実に十七代にわたって将軍家に仕えました。その役割は多岐にわたり、刀装具の製作(彫物役)だけでなく、金貨の鋳造(大判役)、計量の統制(分銅役)といった政権の経済や制度を支える任を担っていました。これは、単なる工芸家の域を超えた、「制度の一部」としての立場を意味します。

中でも、のちに「御家彫(おいえぼり)」と呼ばれる在り方は、後藤家の存在を特徴づけるものとなりました。将軍家や大名のために制作される刀装具を、個人の名ではなく「家」として一貫した様式で仕上げるというこの仕組みは、初代祐乗の代にはまだ萌芽的な形にすぎなかったかもしれません。けれど時代が下り、江戸幕府のもとで体制化が進むにつれ、家の名で作品を送り出し、個人名を伏せることで、様式そのものに信頼を与える“制度的な美”として確立されていきました。

後藤家の作品には、銘を刻まないものが多く見られます。
これは、作人の名ではなく、「家の様式」としての信頼が重んじられていたためと考えられています。名を記さずとも、「後藤家の作」であることがすでに保証であり、その背後にある形式と技術の積み重ねが、見る人に安心と敬意をもたらしていたのです。

後藤家とは何か──。
それは、一人の名工ではなく、時代とともに信頼と秩序を支え、文化を“家”というかたちで刻み続けた営みだったのかもしれません。

初代・祐乗の革新と東山文化の中での位置づけ

後藤家の歴史は、ひとりの彫金師から始まりました。その人物こそ、初代・祐乗(ゆうじょう)。室町時代の中頃、美濃国の豪族の家に生まれたと伝わる祐乗は、若くして都へ上り、八代将軍・足利義政の小姓として仕官します。のちに剃髪して「祐乗」と号し、将軍家お抱えの鏨師として頭角を現していくことになります。

祐乗の活躍した時代は、ちょうど東山文化が爛熟を迎える頃。足利義政が推し進めたこの文化運動は、能や書院造、庭園美術だけでなく、金工・刀装具の分野にも影響を与えました。祐乗はその中心のひとりとして、確かな足跡を残していくことになります。

祐乗の革新のひとつは、刀装具に用いられる「地金」の工夫にあります。とりわけ漆黒の赤銅に、きめ細やかな魚々子(ななこ)鏨を打ち込むという技法は、従来の様式に新たな緊張感と光彩を与えるものでした。文様もそれまでの記号的なものから、動植物の姿を写実的にとらえる方向へと進み、彫口にも高低や段差を取り入れて、立体的な表現を生み出しています。この「肉取り」を重視した祐乗の様式は、のちの後藤家の標準となり、御家彫としての形式美を形成していく土台ともなりました。

一方で、彼の伝記には数多くの逸話が残されています。八歳で土砂をこねて猿の像を作ったところ、大鳥が舞い降りて持ち去ったとか、桃の核に神輿十四艘と猿六十三頭を彫ったなど、まるで神話のような話も伝えられています。もちろん現代の目からすれば誇張と分かる話ですが、それだけ人々が彼の手業に驚きと畏敬の念を抱いた証でもあるのでしょう。

制度としての「御家彫」は、祐乗の個人技術から始まりました。けれどその根底には、形式に堕することのない創造性と、時代の文化に応える柔軟性があったのです。だからこそ祐乗の革新は一過性に終わらず、数百年を経てもなお、後藤家の礎として語り継がれているのかもしれません。

家格を支えた制度──金座・分銅・彫物の三役

後藤家の存在を特異なものにしているのは、その“技”のみならず、“役”としての重責にあります。単なる金工師ではなく、国家機構の一角を担う存在──それが後藤家でした。

後藤家が担ったのは、大きく三つの役目です。
一つ目は「彫物役」として、将軍家のために刀装具を製作すること。
二つ目は「大判役」として、金貨の鋳造やその品質管理を行うこと。
そして三つ目が「分銅役」で、計量単位の統制や分銅の製作を任されたことです。

この三役は、単なる職人的業務を超えて、為政者の「財政」「制度」「象徴」に直結するもの。つまり、後藤家は“彫物で武家の威信を刻む”と同時に、“貨幣と秤で世の秩序を支える”存在でもあったのです。

中でも「金座」「分銅座」における任務は、後藤家に特別な信頼が寄せられていた証といえるでしょう。豊臣秀吉の時代には、「後藤庄三郎」に対して判金や金子吹替の命が下され、年中銀子五貫文の扶持とともに、その責任を任されていました。また、徳川政権下でも同様に「江戸金座」の任を命じられ、「判形」「吹分銅」などの公的作業に従事した記録が朱印状や証文として残されています。

このような役職は、他の金工師にはない特権であり、同時に重責を伴うものでした。なによりも「後藤家がそれを任されていた」という事実そのものが、家格の高さと、将軍家に対する信頼の厚さを物語っています。表に出る華やかな刀装具の裏には、金座・分銅といった“制度の骨格”を支えるもう一つの後藤家の顔があったのです。

彫るだけではなく、量る。
美をつくるだけではなく、価値をつくる。
後藤家の三役は、まさにその両面を体現した制度の中の金工だったといえるでしょう。

宗家と分家の広がり

後藤家の歴史をたどると、そこにはまさに「家」という制度が綿密に機能していたことが見えてきます。単なる血縁ではなく、役割や責任の引き継ぎとして継承されてきた系譜の存在は、御家彫としての後藤家を支える骨格そのものでした。

初代・祐乗から数えて十七代・典乗に至るまで、後藤宗家の系譜は基本的に一子相伝を原則としながらも、必要に応じて養子や他家からの継承を取り入れながら連綿と続いてきました。とくに注目すべきは、十四代・桂乗光守や十六代・方乗光晃が残した『正統系図』の存在です。これらの系図は、常徳寺の過去帳や勘兵衛家に伝わる資料などとも照合され、数百年の系譜を裏付ける信頼性の高い記録として今日に伝えられています。

宗家の流れを追えば、祐乗―宗乗―乗真―光乗―徳乗…と、代を重ねるごとに名と役目を引き継ぎ、彫金の技だけでなく制度的責任をも受け継いでいった様子が明らかになります。なかには、若くして没した当主や、戦で命を落とした者もおり、その都度、後継者が「看防(かんぼう)」として補佐に入る仕組みがとられていました。たとえば八代・即乗が若年で家を継いだ際には、年長の顕乗が支えるなど、家全体で継承を支える体制が整えられていたことがわかります。

また、後藤家の特色として忘れてはならないのが、分家の存在です。理兵衛家、次左衛門家、八郎兵衛家、七郎右衛門家、喜兵衛家、勘兵衛家など、多くの分家がそれぞれに活動しながらも、宗家とのつながりを保ちつつ役割を果たしていました。彼らはときに宗家に後継者を出し、ときに技術的な連携をとりながら、後藤一門としての格式を守り続けてきたのです。

単なる血縁だけでなく、責任と技を重んじる「家」の継承。後藤家の系譜は、その綿密な構造と制度設計の中で、金工という枠を超えて「文化の担い手」としての姿を形づくっていたことがうかがえます。

定法之事に見る“家”の意識

後藤家の格式と伝統は、単なる血縁や技術の継承ではなく、「家」をひとつの秩序ある共同体として守り続ける姿勢によって支えられてきました。
その証ともいえるのが、「定法之事」──四代・光乗によって永禄三年に書き記されたと伝わる家訓です。

この文書では、初代・祐乗が仕官の身から退き、彫物を家業と定めたことが「祖業」として記されており、そこから後藤家の職掌が明確に「家の業」として定義されていたことがわかります。単に技を伝えるのではなく、「勤めとして励むべし」と自らに誓う姿勢がうかがえます。

家紋については、「揚藤之丸、内一文字」を当家の紋としつつ、祐乗の代に将軍義政より九曜紋に改めるよう命じられた経緯が記されており、将軍家拝領の紋として蓬菖蒲の紋も大切にすべきとされています。複数の紋が併存する場合においても、それぞれを由緒あるものとして尊重する家風が読み取れます。

信仰についても明確な指針が示されています。
「当家は日蓮宗を信じ、妙覚寺を菩提所と定めること」「他宗を信仰することは堅く無用」──これは、宗派に対する姿勢以上に、「家の精神的な統一性」を保つことの重要性を語るものといえるでしょう。

一門の人間関係についても細やかな配慮がなされています。
喜びがあれば共に喜び、悲しみがあれば共に嘆き、喪にあたっては惣領であれば父母に準じ、庶流であれば忌三十日・服九十日とすること。また、幼少の名跡継承者があれば、周囲が心を寄せて介抱にあたるべしといった条文からは、家業の継続を家全体で支えようとする意識が明確に感じられます。

さらに、生活の在り方についても具体的な節度が定められています。
日々の食事は一汁一菜とし、衣服は木綿物を用い、祝日でも常衣と同じにすべきこと。住居も雨風をしのぐ程度で良しとし、贅沢は一切無用──その慎ましさは、格式ある家柄にふさわしい生活態度として意図されたものです。

秩序を守るための規律もまた、厳格に記されています。
性根の悪い者や不埒な振る舞いがあった場合には、速やかに異見を加え、必要に応じて家内で処断すべきとされ、その上で、「悪事を他に漏らさず、嫡流家に報告して判断を仰ぐ」体制が求められています。

そして、最後に記されるのが、すべての条文に対する起請文です。
「右の条々に背く者は、天照皇大神宮・春日大明神・正八幡大菩薩の神罰・冥罰をこうむるべし」と結ばれており、この定法が単なる内規や心得ではなく、“神仏を証人とした誓約”として機能していたことを明確に物語っています。

「家を守る」とは、形式を守ることだけではなく、精神と秩序を保つこと。後藤家が、無銘でありながらも深い信頼を獲得してきた理由は、こうした内面の厳しさにこそあったのかもしれません。

祐乗の後を継ぐ者たち

初代・祐乗の死後、後藤家はその意志と技術を継ぎながら、時代に応じた変化とともに歩みを続けていきます。代替わりのたびに問われたのは、単なる技の継承ではなく、「後藤家という存在をどう守るか」という制度と精神の引継ぎでした。

二代・宗乗は、祐乗の次男として後を継ぎました。祐宗とも名乗り、父と同じく将軍義政に仕えた彼の代には、すでに後藤家の家業が制度化の兆しを見せていたといえるでしょう。続く三代・乗真は、宗乗の嫡男でしたが、永禄年間に戦乱の中で討死。名家といえども、時代の波に飲まれる脆さがあったことを象徴する出来事です。

その後を継いだ四代・光乗は、享禄二年生まれ。享年九十二という長寿で、後藤家の制度的基盤を固めた人物とも評されます。彼の代には、赤銅地に魚々子鏨を打ち込む技法が体系化され、御家彫の形式がより明確になっていきました。また、五代・徳乗は文禄年間に法体し、「後藤徳乗」として金座や分銅役において大きな役割を果たしています。

こうした歴代当主のなかには、若くして家督を継いだ者も少なくありません。その場合、しばしば「若年付看防(じゃくねんづきかんぼう)」という制度が設けられ、年長者や親族が後見役として支える体制がとられていました。たとえば八代・即乗や十代・廉乗は、幼少での当主就任を支えるために親族が実務を代行しながら、漸次本人に引き継いでいったのです。

また、後藤家では養子縁組も積極的に行われました。宗家十一代・光雄は、分家から迎えられた養子であり、十七代・光則も別家出身者を宗家に入れることで継承の流れを保ちました。こうした柔軟な対応は、血統よりも家業と制度の維持を重視した後藤家ならではの姿勢と言えるでしょう。

そして、後藤家にまつわる伝記には、数多くの誇張や逸話が含まれています。たとえば祐乗が八歳のとき、土で作った猿を大鳥が空へ持ち去ったとか、桃の核に神輿十四艘と猿六十三頭を彫ったという逸話などは、その巧みな手業を称えるための寓話として語られてきました。現代から見れば荒唐無稽に思えるこれらの話も、当時の人々が後藤家に抱いた畏敬の念を映す鏡のようなものだったのでしょう。

代が替わるたびに、ただ技が継がれるのではなく、秩序と信頼、そして家の矜持までもが引き継がれていく。その静かな営みの積み重ねこそが、後藤家という“家業の美学”を今日に伝える礎となっているのです。

後藤家と政権

後藤家という存在を理解するうえで、見逃せないのが「制度の中に組み込まれた金工」であったという点です。単に腕の良い職人というだけでなく、国家運営の仕組みそのものに深く関わっていたことが、数々の文書から見えてきます。

たとえば豊臣政権下では、後藤徳乗に対して金貨の鋳造や判金といった役目が命じられ、その見返りとして米五百石、銀五貫文といった多額の扶持が支給されました。命令書には「この役目は極めて肝要である」と明記され、金銭制度を預かる者としての責任と信頼が示されています。

また、江戸時代に入ってからもその信頼は変わりません。徳川秀忠の時代には、山城国の知行地が「完全に支配してよい」とされ、課税や役務も免除される特例が認められました。これはもはや、一介の職人を超えた“制度の担い手”としての待遇です。

後藤家が得ていた知行地は、複数の村にまたがり、石高も150〜250石規模。これは中堅の旗本と同等であり、金工師としては異例の処遇でした。

注目すべきは、その信頼が一代限りではなかったことです。信長、秀吉、家康と政権が変わっても、後藤家は代々にわたって同様の職掌を任され続けました。まさに、後藤家は「彫ることで美を支える」だけでなく、「制度を維持するために必要とされた」金工だったのです。

その信頼の重なりが、「無銘」という姿にどう表れていたのか──。
名を出さずとも役を果たす、その静かな覚悟こそが御家彫の本質かもしれません。

“家業”としての文化的役割

後藤家の刀装具を眺めるとき、私たちはつい「美術品」としての完成度や技術の巧みさに目を奪われます。しかしその背後には、「家業」として文化を担った人々の、静かで厳格な視野が広がっています。

御家彫の本質は、“個人の表現”ではなく、“家としての責任”にありました。後藤家の刀装具は基本的に無銘で制作されており、それは作者の名前ではなく、「家そのもの」の格式と技術が信頼されていた証でした。誰が彫ったかではなく、「後藤家の作」であることがすでに品質保証であり、そこに制度美の価値が込められていたのです。

このような体制の中で、後藤家は一門をあげて作風を共有し、図案や素材、彫技を分家に至るまで連携させていました。同じ図柄の装具が複数の家で制作されていることからも、意匠の台帳のようなものが存在していた可能性が高く、家全体で美意識を統一していたことがうかがえます。

一方で、この様式の厳密さは、時代が下るにつれて「保守的」とも評されるようになります。
江戸中後期には、町彫と呼ばれる自由な作風の金工たちが人気を集め、写実性や奇抜な意匠がもてはやされるようになっていきました。しかし、それでも後藤家は“格式”という旗を降ろすことなく、代々受け継いだ型を守り続けたのです。そこには「表現の自由」を超えた、「守るべき伝統」としての誇りがあったのでしょう。

後藤家における刀装具づくりは、“売るため”の制作ではなく、“捧げるため”の営みでした。将軍家や武士のために作られる装具は、単なる装飾ではなく、その家の意志・信条・位を象徴するものであり、それに応えるために彫るという行為そのものが、文化への奉仕だったのです。

個人の美ではなく、家の美。
技の伝承だけでなく、精神の継承。
後藤家の仕事には、そうした“文化的な意志”が、静かに、けれど確かに流れていました。

現代に受け継ぐために美の継承を考える

後藤家の刀装具には、銘が刻まれていません。けれどその「無銘」は、作者不明を意味するものではありませんでした。むしろそれは、「家」という制度のなかで受け継がれ、育まれてきた技術と精神のしるし。御家彫という枠組みのなかで作られた作品は、個人の名を伏せることで、家の格式そのものを語り、文化的信頼の象徴として機能していたのです。

祐乗の名が広く知られる一方で、数多くの後継者たち、そして宗家・分家に名を残さず仕えた職人たちの手業が、その形式を支えていました。京都に留まり、派手さを競うことなく、同じ型をひたすらに彫り続けた人々。その積み重ねの上に、現代に伝わる御家彫の美は成り立っています。「静かに、しかし確かに、長い時間の中で積み上げられてきたものだった」──その静謐な営みの尊さは、今こそ見直されるべきかもしれません。

かつては完成された作品を前に「美しい」と感じるだけだった目貫も、いま改めてその背後にある「残されてきた理由」に目を向けることで、まったく違った輝きを放ち始めます。格式や制度という言葉が、単なる古めかしさではなく、「美を守り伝える仕組み」として見えてくるようになるのです。

そして私たちは、いま“受け継ぐ側”としてその刀装具と向き合う立場にあります。ある日ふと、たまたま手に取った後藤家の目貫に、思いがけず心を動かされた体験──そこから「もっと知りたい」「学びたい」という気持ちが芽生えたのだと語る人がいます。文化の継承とは、そうした小さな感動の積み重ねから始まるのかもしれません。

家という制度が遠のいた時代だからこそ、“形式”の中に込められた意志と美意識に、もう一度目を向けてみる。そうすることで、後藤家の刀装具は、単なる歴史資料でも、美術品でもなく、“いまを生きる私たち”の文化的感受性を育てる、静かな師となってくれるのです。

参考文献

本記事は、以下の書籍に基づいて構成しています。

『刀装具御家彫名品聚成』福士繁雄 著、大塚巧藝社 出版、2001年(平成13年)10月 刊

家彫の様式とその体制に関する記述の多くは、上記書籍の本文および系譜記録を参照し、歴史的事実をもとに再構成しています。
なお、一部の表現や解釈については筆者の視点を含むものであり、歴史的資料の解読・編集にあたっては慎重を期しています。

あとがき

後藤家の刀装具と向き合い続けるうちに、「作品をつくった」のではなく、「家そのものがひとつの作品だったのではないか」と感じるようになった。
名を出さず、型を守り、誰かのために彫る。
それは今の価値観からすれば、あまりにも個性が薄く、自由がないようにも見える。
けれど、そうして“守る”ということがいかに尊く、難しいことだったか──今は少しだけ実感としてわかる気がする。

御家彫の作品には、驚くような派手さはない。
けれどそこにあるのは、何代にもわたって築かれた確かさと、世代を超えて研ぎ澄まされてきた、ぶれのない技の軸。
その静けさが、見る人の感性をゆっくりと揺らしていく。
目立たないように彫られた文様や、赤銅の地に刻まれた魚々子鏨の細かさが、語らずに語る美しさをまとっていた。

文化は「作られたもの」だけではなく、「仕組みごと」受け継がれてきたもの。
刀装具という一点の中に、制度や信頼、役割や覚悟が封じ込められていたことに気づいたとき、私はようやく「後藤家が無銘であること」の意味を、頭ではなく感性で理解できたように思う。

後藤家の作品が残っているということは、その仕組みを守った人たちが、確かに存在していたということ。
そのことに、今はただ静かに、心からの敬意を抱いている。

──ちなみに、今回の記事を執筆するにあたって読んだ文書の中には、永禄・天正・慶長ごろに交わされた朱印状や宛行状など、当時の制度や信頼関係を生々しく伝える興味深い記述が数多く含まれていた。
なかには、衣食住に関する戒めまでもが残されており、たとえば光乗が定めたとされる「定法之事」には、こんな一文がある。

食ハ一汁一菜、居宅ハ雨風ヲ凌ギ候迄ニ相補理。
祝日之衣服ハ常之絹、平生ハ木綿物着用致スベク候。
寄ママ麗ヲ尽シ候儀、堅ク無用タルベキ事。

「食事は一汁一菜とし、住まいは雨風をしのげる程度に整えよ。
ハレの日の装いは絹でもよいが、普段は木綿の衣服を着るべし。
流行や見栄にとらわれ、華美を極めることは、かたく慎むべきである。」

華やかさを控えることにこそ、美を宿すという姿勢。
その中に、ものづくりを支えてきた確かな価値観を感じた。

紡盛堂のこと、もっと知っていただけたら嬉しいです。

刀装具や日本刀、日本文化にまつわる日々の気づきを、SNSでも発信しています。
よろしければ、こちらもあわせてご覧ください。

このブログが、ほんの少しでもあなたの感性に響くものであれば幸いです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

ホームに戻る