「瓢箪に馬」と聞いて、どのような情景を思い浮かべるでしょうか。
瓢箪(ひょうたん)と馬は、一見すると何の関係もないように思えます。
しかし、日本には「瓢箪から駒が出る(ひょうたんからこま)」という、よく知られたことわざがあります。
そしてこの言葉こそが、今回取り上げる目貫の画題「瓢箪に馬」に込められた意味を読み解く鍵となるのです。
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もくじ
瓢箪から駒──ことわざに込められた意味
「瓢箪から駒」とは、「まさかと思うようなことが現実に起きる」「あり得ないことが実現する」ことのたとえ。
突拍子もないことが、ふと現実になる。そんな驚きや奇跡の象徴として、この言葉は古くから親しまれてきました。
このことわざの由来は、室町時代の狂言や江戸時代の洒落本など、庶民文化の中にもたびたび登場し、落語や川柳にも取り上げられています。
その背後には、何も入っていないはずの瓢箪から、突然馬のような大きな生き物が飛び出すという「不条理で滑稽なイメージ」がありました。
しかしその不条理こそが、人間の予想を超えた可能性や、思いもよらぬ幸運の暗示としても捉えられてきたのです。
また、戦国時代には豊臣秀吉が「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」を馬印としたこともあり、瓢箪そのものが「縁起物」としての地位を確立していました。
瓢箪は多産・繁栄・厄除けの象徴であり、馬は出世や前進を象徴する動物。
それらが一体となった画題は、まさに「思いがけぬ吉兆」を象徴する組み合わせといえるでしょう。
馬というモチーフの文化的背景
刀装具において、馬は非常に人気のある題材です。
力強さ、忠誠心、そして移動や戦いにおける重要性──馬は古代から日本人にとって欠かせない存在でした。
目貫や鐔などにもたびたび馬の姿が見られますが、それらの多くは躍動感のある造形で、いかにも「戦(いくさ)」に向かう気概を表しているように見受けられます。
しかし、「瓢箪から駒」となると、その印象はやや異なります。
こちらはむしろ、奇跡や夢物語、あるいは洒落や遊び心に満ちた柔らかい表現。
そうしたニュアンスが、硬質な武具の中に柔らかな文化性を息づかせているのが興味深い点です。
目貫としての「瓢箪に馬」
実際に「瓢箪に馬」の目貫を見ると、その造形は実に多様です。
瓢箪の中から飛び出すような馬の姿をユーモラスに描いたものもあれば、馬と瓢箪が並置され、静かに象徴性を伝えるものもあります。
赤銅地に金象嵌で仕上げられたものや、真鍮地に銀の線象嵌を施したものなど、素材と技法の組み合わせもまた多彩で、職人の遊び心と技量の融合を感じさせます。
目貫という小さな空間の中に、どこまで物語や比喩を凝縮できるか──
「瓢箪に馬」は、その一つの到達点であるように思います。
洒落としての文化、縁起物としての意味、そして意匠としての美しさ。
この三要素が絶妙に絡み合っており、鑑賞するたびに新たな気づきを与えてくれます。
鑑賞者に託された想像の余白
目貫の世界では、「彫られていない部分」もまた表現の一部とされています。
瓢箪に馬という画題においても、観る者の想像を刺激する余白が多分に残されています。
この目貫が、どのような思いで選ばれたのか──
日常の中にちょっとした遊び心を持ちたいと願った人物が手にしたのかもしれません。
あるいは、思いがけない幸運やチャンスの訪れを信じ、縁起を担いで身につけたのか。
時に装身具は、その人の信念や祈りを映す鏡となります。
「瓢箪に馬」という突飛な発想を、ただの笑い話ではなく“心の拠り所”として身につけた人がいたとすれば、その感性の豊かさに心惹かれずにはいられません。

最後に──偶然と遊び心を手のひらに
「瓢箪に馬」という画題には、古くから続く日本人の「遊び心」や「洒脱な美意識」が宿っています。
不条理を笑い、偶然を楽しみ、そこに吉兆を見出す。
そうした文化の一端を、目貫という小さな金工の中に見出せることに、私は強く惹かれます。
これからも、こうしたユニークな意匠を一つひとつ丁寧に見つめていきたいと思います。
そしてその中から、ほんの少しでも、日本文化の奥深さと楽しさを感じていただけたら嬉しいです。